物語 Deervery代表 渡辺洋平を突き動かす原動力やきっかけとは?
Deervery代表 渡辺洋平を突き動かす原動力とは? 今回はDeerveryプロジェクトの創始者である渡辺洋平の原動力になっている体験を簡単にお話しさせていただきます。このお話が「何かに挑戦したい」「未来に何らかの影響を与えたい」「どうにか社会貢献してみたい」という見えない自分に戦っている方や、将来が漠然としていて進む道が分からないという方の少しでも助けになれば嬉しいです。 大学に合格した少年が困難を乗り越えて、生きる意味を見つけ出し、Deerveryを開始することに至るまでの物語になってます。説教臭い論説ではなく、物語なのでぜひ読んでみて下さい! 自己紹介 こんにちは。渡辺洋平です。横浜国立大学2年生と19歳の終わりが近づいてきています。なぜ北海道出身の私が、はるばる横浜に来たのかと言えば、経営学を学ぶためです。私はもともと経営者という職業に何となくの憧れを持っていたため、高校1年生の時に国立大学で経営学部があり、日本の中心の東京に近い大学ということで横浜国立大学に入学しようと決意し、3年間ほのぼのと勉強を重ねてめでたく入学することができました。でもその合格発表の後に悲劇が襲ってきました。 突然の祖父の死 私の祖父は、80歳を超えても毎日ランニングしたり、スキーをしたり、髪を伸ばして結ぶことができるほど身体的に健康的な人でした。私は、そんな優しくて、知的で、情熱的な祖父のことを、とても尊敬していました。 そんな祖父は戦前、宮城の山奥に8人兄弟の末っ子として生まれ、親ではなく兄弟に育てられたと言います。そして12歳ごろから炭鉱で働き始め、その後自衛隊に入隊します。勉強熱心な祖父は、大人になって自衛隊で勤務しながら、通信制の高校に通いました。その後80歳を超えても勉強を辞めることなく、独学で無線通信や建築の免許を取得し、数えきれないほどの免許や資格を持っていました。また、通信制の高校で惚れた普通科の女の子にラブレターを送り続け、ついに交際まで発展させることに成功しました。勉強や運動だけでなく、恋愛にも情熱を発揮していたようですね(笑)。ちなみにラブレターについては、祖父ではなく祖母から聞いた話です。「今じゃ、ストーカーだよねぇ(笑)(笑)(笑)」と楽しく語ってくれました。 受験勉強でしばらく会いに行ってなかった、そんな魅力あふれる祖父母に、合格発表(3月8日)と誕生日(3月18日)のお祝いをするために、会いに行こうとしていた矢先、突然の危篤の報が入りました。祖父は、毎日の習慣のランニングの最中に、氷に足を滑らせて頭を打ってしまったのです。それから1週間ほどで私の大好きな祖父は息を引き取りました。 国立大学に入学したのは親戚の中に一人も居なかったので、横浜国立大学に合格したらきっと喜んでくれると思っていました。実際、祖母は「じぃちゃんは喜んでたよ。」と言ってくれました。私の中ではそれが救いでしたが、対面で伝えたかったし、久々に会いたかったし、18歳になった自分を見て欲しかった。そんな悲しい想いで涙が流れました。 4月1日に横浜に発つ予定を控えて、入学式用のスーツを着て葬式に参列しました。最後のお別れをそこでしてきました。 入学後の新生活でも続く想い 喜々とした合格発表から、悲嘆の死を経験し、念願の横浜国立大学に入学することができました。北海道から出て、横浜での1人暮らしに戸惑いつつも授業やサークル、インターンに参加しました。 もちろん新生活で新たな出会いや刺激もあり、大学生活は充実はしていました。ただ、祖父の死を克服することはできていませんでした。「ずっと元気だったあのじぃちゃんともう会えないのか。」という悲しい想いが、私の心をずっと引っ張っていました。そんな重い思いに引きずられつつも、半年以上が経過し12月を過ぎました。その頃の私は、静かに何個もの挫折を経験していました。 3つの挫折と1つの病気 その頃の私は、インターンを3社経験し、一人で起業に挑戦していました。合計3個くらいの事業に挑戦しましたが、結局は、競合の存在や自分の力量などに限界を感じ、すべて挫折しました。「何にもできないな。オレ。」と激しく深く落ち込みました。 クリスマスに男友達に連れ出してもらった箱根旅行では、横浜に来てから一度も帰らなかった北海道が恋しすぎて、箱根の山に少し積もっている雪を見て、思わずポロッと涙がこぼれ落ちました。3個の挫折とホームシックの陰にあったのは、二度と祖父に会えないんだなぁという悲しみでした。 死を乗り越える手助けは突然に そんな病み期を越える手助け、いや、根本的に祖父の死を克服し、自分を変えてくれた経験がアメリカの遺伝系難病に詳しい医者・科学者のシャロン・モアレムさんが書いたこの本です。日本語の名前は胡散臭いですが、科学的な事実に基づいた良書だと思います。 この本の趣旨は、時間を経ないと遺伝子自体は変わらないが、遺伝子は活性化されているものとそうでないものがあり、それらは日常生活の中でオン/オフの切り替えが発生する。そしてその切り替わった遺伝子は、子供や孫にも引き継がれるということです。 このこと自体に僕は驚きを隠せませんでしたが、本を読んで少し考えた時に、今の自分は両親や祖父母の生きてきた遺伝子によって生きているんだと気づかされました。これ自体は当たり前のことですが、ただ単に遺伝子を受け継いでいるだけじゃなくて、日常の努力や困難がもろに遺伝子に刻まれているという事実を知ってからだと、「凄いなぁ。。」と感嘆しました。つまり、祖父の情熱的なラブレター攻撃も、資格試験へのたゆまぬ努力も自分の遺伝子に刻み込まれているんだと気づくことができたのです。 そうして私は、今の自分の体は祖父の遺伝子によって形作られていて、「じぃちゃんはオレの体の中で、オレと一緒に生きてるんだ。」そう思えるようになりました。この考え方をすることで、とても満たされた気分になると同時に、感謝の念も感じ、「じぃちゃんにはもう会えないけど、じぃちゃんと一緒の体で、一緒に進んでいこう」と悲しみではなく前向きな気持ちを持つことができるようになりました。 このように遺伝子が日常を記憶し、それを子孫に引き継ぐということを知って、ようやく祖父の死を克服した私は、もう一つ大きな発見をすることができました。 死を克服した自分へのご褒美 そうして私は、大好きな祖父の死を受け止め、前向きに生きていこうと思えるようになりましたが、思考はそこで止まりませんでした。「いつか、オレは死ぬんだ。。。」そんな怖い想いを抱えながら、小さい頃から過ごしてきましたが、この思考の転換によって、「じぃちゃんが残してくれたように、俺も何かを残す立場になるんだ。」そう気づきました。 自分の子供や孫に残す遺伝子は、どうせなら少しでも良いものにしてあげたいし、成長には環境要因も大きいので、より良い環境を残してあげたい。純粋にそう思うようになりました。実際、僕は環境活動家のような人を毛嫌いしていましたが、まさか利己的な考えから、こんな利他的に見える想いを抱くとは思っていませんでした。 そうして、僕は生きる意味を見つけることができました。いま僕は人間全員の使命は「孫の世代に、よりよい世界を残す。」ことだと考えています。もちろん、どんな意見があったって良いですが、イーロンマスクの火星移住計画も孫の世代でも人類が生存できるように、地球温暖化対策も孫の世代でも人類が文化的に生きれるように、という意味で、「孫の世代に、よりよい世界を。」というのが人間としての、生きる意味なのではないかと思うようになりました。そんな時に故郷に貢献するチャンスが訪れました。 知られてないけど身近だった鹿 哲学をして、自分なりに前向きになれた頃に見たのが、鹿の大量発生のニュースです。私は北海道出身で、車で湖に行けば鹿を見かけ、秋には鹿と車の衝突事故のニュースが飛び込んでくるような生活をしていました。実際には、北海道に住んでいる人でも鹿に注意が向くような人は少ないとは思いますが、鹿の問題は年々増加していることを肌で感じている人は増えてきているように思います。...